朝が戻る

 朝が戻る 

 

 始まりがいつだったのか、わからない。なら、もう気づく前から受け入れていた、ということなのでしょう。

 事態には、事前の合図だとか、あらかじめの挨拶といったことがありません。ただ渦中に置かれてから知る事です。この町で顔を上げると、濃い霧雨が、そうだと気付く前から壁として町をぐるりと囲んでいた、といったようなことにもなるわけです。

 町に暮らしてきた人々の、暮らす、ということは止《と》められず、すでに日もずいぶん過ぎていました。いつからが始まりだったのか。人たちは引き続き窓を開け、窓を閉め、鍵をかけ、鍵をしまい、バス停に並び、昼食をとり、電話を待ちました。

 いつしか、町の全体をぐるり、壁となった霧雨が隙間なく、周囲を取り囲んでいました。色や形。音声に言語。関係性、それは哀しみ。そういったものを、みんな呑み込んでしまいそうな、見通しのきかない色をして、ずっと降り続いておりました。

 時折り、風の吹いた折り、カーテンのひだのような濃淡が、霧雨の壁面に生じることがありました。ついた縦波の模様は、壁の表層で、音もなくはためいたりしましたが、霧雨は厚く満ちたまま、切れ間ひとつも見せることはありませんでした。

 暮らす限りこの町の誰ひとり、静かな雨を越えていくことがないままです。人々は引き続き町に暮らし、気づけば、すでに不可逆の日々を送り、重ねてきたのでした。

     *

 窓から外を眺めるとき、人たちはひそひそ、話し合います。(隣町にあったビルに、駅舎だとか、それと電波塔なんかが、そう、ぜんぶあの白いカーテンの向こう側でね)

 皆、何度でも、ひそひそと言い合います。(それがむかしだったら、そう、むかしはね、いまよりは、そう、むかしのね)

 暮らすことは、思い立つ以前からの引き続きでした。毎日、眠ることのように手は動き、運ばれることのように足は踏み出され、はじまりさえ区切り線のない、継続の一部なのです。お皿は並べられ、お皿は下げられ、ゴミが分別されると、回収が行われます。

「ねえ、スーパーマーケットのある二丁目まで、こちらにあってよかったわ」と、大半の母親たちが、窓の外を見ながら、誰にともなくつぶやくのでした。

「まあ、あんなものは、いずれなくなるに決まっている」と、同じ部屋で中年男たちが、朝刊を顔の前に立てたまま、窓のほうも見ずに、声だけを発します。

 多くの娘らは後ろを素通りし、背を向けたまま靴を履くと、黙って後ろ手に玄関を閉め、代わり映えしない一日へと出かけて行くのでした。

     *

 町の上にだけ雲がないので、直上には、抜けるような青空がありました。青過ぎる色の天井は、逆さまにした井戸の高い底を覗き込んでいるようで、それがこの町一番の遠方でした。

 ふとしたきっかけがあれば、町一番の遠方への、まっすぐな投身が叶いそうなのに、空に見えているものは、どこからも道の通じない、遠方なのでした。

 町の周囲には霧雨の壁があるので、暮らしの外側を、だれも見ることがありません。白いカーテンは高度一万フィートから垂れ下がり、毎日、分厚く、隙間なく、町を覆い続けています。

 町の上にだけ雨がないので、夜になれば、この星のものではない輝きで空がいっぱいです。星々は、航路なき異国の港に点る街灯のようでもあり、すると星空は、国交のない世界を一覧にした博覧図のようにもなって、しかもそのひとつひとつは、解読不能な通信を思わせる明滅をしながら、そこにあるのでした。

 ずいぶんと昔、ほとんどの祖母たちがしたように、孫娘らも指の先で星をつまみ、接続の叶わぬ通信を試みました。かつて娘だったころの母たちが試したように、孤独の周波数を開き、特別な瞬間の訪れを念じてみたりもしました。そしていつも同じように、重く腰を上げ、夜道を帰って行くのでした。

     *

 それから等しく眠りが訪れて、人々は例外なく、等しく夢と結ばれます。未来で待つ好意に。あるいは後悔の前日に。冒険と全能感、それか隔絶との再接続に、皆が一度は繋がれて、それから手放されるように目を開きます。

     *

 窓に外光があります。

 向こう側に音が増え始めると、埃が立って、光がますます色を強めていきます。

 朝が戻ってきました。朝が戻ってきました。朝はまた、戻ってきました。

 町の歯車が回り出し、ゆるやかに噛み合って、暮らしの動力が広く伝播して行きます。波紋が広がって行くように、関係性の輪が、回る一日に動力を伝え合ってゆきます。

 窓を開け、鍵を開け、バスを待って列ができ、湯気が立ち、電話が鳴っています。

 始まりはいつだったのか、わからないままです。でも、気づく前から受け入れていた、ということなのでしょう。

 依然として、合図だとか、知らせなどありません。この渦中にも案内はないままです。でも、もうずいぶん長い間暮らしてきましたから、これは続きの話です。この町にいて顔を上げると、ずっと降りしきってきた霧雨が壁となって、そうだと気付く前から町をぐるり、取り囲んでいるのがみえる、という話しなのです。

夏ヶ瀬ノ文集

遠ざかるほどに日の浅くなる、夏を渡る。 [ 夏ヶ瀬 文人 - Fumito Natsugase ]