三十五秒

 真夜中。キッチンに立つと、いつも着信がある。出ると、見通しのきかない無音が現れ、部屋から音が消えてしまう。じっとして、音が戻るまで数えて待つと、三十五秒ある。

 三十五秒で、人は、長い物語を生きることもできる。夜は港湾。停留所で待ち合わせ、空港を目指す。バスの曇った窓。単語をひとつ指で書き、袖で拭って消してしまう。窓の向こうには、音のしない稲光が走っている。

 バスを降りて二人、小走りに駆け出す。フライト時刻の迫るチェックイン・カウンター。手続きの段になり、名前を持っていないことを指摘される。名前、名前、わたしの名前。名を持たぬわたしの演者は、一人空港に残された。搭乗した恋人は、預け荷物と一緒に機上の人になって、未来から消えて。わたし役の演者は、周回バスに戻って、座り、

 三十五秒。ひとり、真夜中に立っている。キッチンに、換気扇の回る音が戻っている。

#散文詩 的な #短編 #小説 集

夏ヶ瀬ノ文集

遠ざかるほどに日の浅くなる、夏を渡る。 [ 夏ヶ瀬 文人 - Fumito Natsugase ]