ハルは湯のふね
『ハルは湯のふね』
隣町の病院の、東棟一階の角に、個室ほどの大きさの売店があって、買いもしないのに覗きに行くのが、替えのきかない楽しみです。
埃をかぶった日用品の棚で、昔、学校でもらった裁縫用のダルマ糸があるのを、なんでか、いつも確認してから、次の棚を巡回します。きょうは子供用の靴下が一足、減っていることに気がつきました。次のカラフルなお菓子の棚は素通りです。見るのは時々。いつもは見ないようにしています。それから霜のついたアイスのケース。時々、ちょっとだけ開けて、季節のものがないか探すだけにします。
通路の方で、ぱっと咲くような笑い声がして、重なるように「で、それが意外と歳で……」って、誰かが明るい声で会話しながら、通り過ぎて行く気配がありました。(いやな言葉)と思って、つい巡回の足を止めてしまいます。
わたしと似合いの年齢は、もう、わたしの時間軸と符合しないと思うんです。ずっと前、わたしも、似合いの年齢も、ものごとの決まりから外れてしまって、おそらく、世間に言い方がないんだなって、感じてしまうんです。
階段を上がって屋上へ出ると、佐々木さんが洗濯物を干していた時のことを思い出しました。洗った靴下を吊るす佐々木さんは、売店の、似合わない柄の靴下を履いていて、ポケットには、隠している煙草の箱の膨らみがあって。
今、屋上には金網が張られて、あの一番端の、あの青いベンチのあったところまで行くことはできません。誰も覚えていない、佐々木さんの、あの日まで近づくことができるのは、私しかいないのに、近寄ったぶん、側《そば》に寄るのは、錆びた鉄の匂いばかりです。
金網の太さを、折った指の節に感じながら、あゝ感情が、うっかりこぼれ出ないようにと、そんなふうに思いました。どこかに迷惑のかかる所だとか、誰かを驚かしてしまうようなタイミングで、こういう思いがこぼれ出てしてしまわないようにと、そう言い聞かせていました。
前方へ伸ばした左の腕を、水平に固定して左の堤防。右の腕を、大きく回すようにして右側の堤防。腕で囲って作る胸の港湾で、鎮めていく気持ちの波。心の真ん中を守ると、サイズは一人暮らしの時の、浴槽くらいにみえました。
両腕で抱え持つ、感情の湯船。わたしは私を操舵して、心こぼさぬように、たぷん、とぷんと歩いて行きます。屋上を離れ(後ろには過去)、巡航する湯船(ゆらり)は、階段を下りて参ります。感情がこぼれて落ちないよう、一歩(たぷん)一歩(とぷん)航行いたします。
今日はもう一度売店へ寄って帰りましょう。もしかしたら今の、この間にも、春向きのアイスクリームが、補充されているかもしれないでしょう。誰にも聞かせない汽笛を後ろに置いて、ハルは航行。浮き世の私船。通り過ぎる季節を出迎えに、巡回していく、隣町の東棟です。
[ハルは湯のふね 了]
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